@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:02000143, author = {渡部, 宏樹}, journal = {日本研究, NIHON KENKYŪ}, month = {Mar}, note = {『刀剣乱舞』(二〇一五年―)は現代日本において人気を誇るメディア・フランチャイズであるが、恋闕(れんけつ)という感情の形式や審神者(さにわ)といった意匠を用いている点で世界設定が一九六〇年代の三島由紀夫の作品群の影響下にある。本稿は、映画研究におけるローラ・マルヴィの「男性のまなざし(male gaze)」論を一般化して援用し、さまざまなメディア上で発表された『刀剣乱舞』ならびに三島作品群を比較検討するものである。  『刀剣乱舞』は女性が男性身体を対象化する「女性のまなざし」を持っているが、マルヴィの理論と異なり作品世界内で観客が同一化する人格的表象が最小限に設定されている。一方、三島の小説「英霊の聲」と小説ならびに映画「憂国」をまなざしという観点で検討すると、性的対象化の機構であるまなざしよりも、そのまなざしへのまなざし返しが重視されていることがわかる。三島の評論「文化防衛論」における「文化概念としての天皇」を補助線として利用することで、天皇との君臣合一という三島の美的理想にとっては、天皇という超越的な存在によってまなざし返されることが必要である。この理想は「英霊の聲」においては盲目の川崎青年がまなざし返すことができない否定形として、「憂国」においては天皇を代理し武山をまなざす麗子とのエロース的合一として表現されている。特に映画「憂国」に注目すると、『刀剣乱舞』同様、作品世界へ没入するための同一化の対象となるアヴァターの表象が最小化されていることがわかり、従って『刀剣乱舞』は三島作品から意匠を借りているというだけではなく、快楽の契機としての受動性を共有していると言える。  しかし、これは両者が同じ方向性を持っていることを意味しない。三島作品が現実の天皇制と向き合って彼の理想の不可能性を理解していたのに対して、『刀剣乱舞』は資本主義社会における商品として、死を永遠に先延ばしにした無時間的な空間の中での至福をプレイヤーの数だけ生産するメカニズムとして機能している。}, pages = {75--97}, title = {<研究論文>恋闕へのまなざし : 『刀剣乱舞』と一九六〇年代三島由紀夫作品の比較研究}, volume = {68}, year = {2024} }