@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000425, author = {横山, 輝樹}, journal = {日本研究}, month = {Sep}, note = {本論は江戸幕府八代将軍徳川吉宗による幕臣への武芸奨励について、特に、享保十年・十一年(一七二五・一七二六)に実施された小金原鹿狩についてその実態の解明と歴史的意義を明らかにしようとするものである。惰弱化していく幕臣を鍛え上げるため、吉宗が武芸を奨励したということはつとに知られるところであるが、その実態解明についてはいまだ不十分なままである。本論は武芸奨励の一環であり、吉宗による武芸奨励の中でも最大規模を誇る小金原鹿狩について分析を進めることにより、先行研究の不備を補おうとするものである。古来より狩猟とは軍事調練の意味合いを有しているが、とりわけ本論で取り扱う鹿狩は鹿や猪といった大型獣を多人数で狩るという性格上、軍事的色彩の極めて濃い狩猟である。小金原鹿狩においては鹿や猪を一定の場所に追いつめるために(さらには仕留めるために)多数の勢子が動員された。その主役となったのは、旗本で構成された五番方と総称される軍事部隊であった。五番方は幕軍の中でも最も格の高い部隊であり、幕軍の中核を担う立場にあった。このような部隊に属する旗本が軍事調練としての鹿狩において活躍するということは、惰弱化する一方であった状況下にあって、相応の役割を果たしたと考える。五番方は手に槍を携え、ある時は騎乗し、ある時は自らの足で駆け、獲物を追いつめていったのである。しかしながら、鹿狩は一朝一夕でできるものではない。度重なる狩猟の経験こそが鹿狩を可能ならしめるのであるが、問題は吉宗が将軍に就任した享保元年(一七一六)、幕府にあっては久しく狩猟が実施されていないという点にあった。吉宗は狩猟に対していわばゼロからの出発を余儀なくされたといってよい。このような悪条件の中、吉宗はいかにして小金原鹿狩を実現したのか。試行錯誤の繰り返される勢子運用、次第に逞しく成長する五番方の面々、これらを史料に基づいて追跡し、小金原鹿狩の実態解明に結び付けようと考える。}, pages = {83--141}, title = {徳川吉宗の小金原鹿狩 : 勢子運用の観点から}, volume = {50}, year = {2014} }