@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000452, author = {山本, 冴里}, journal = {日本研究}, month = {Mar}, note = {日本発ポップカルチャー(以下、JPC)に対する評価や位置づけは、親子間から国家レベルまで様々な次元での争点となった。そして、そのような議論には頻繁にJPCは誰のものか/誰のものであるべきかという線引きの要素が入っていた。本研究が目指したのは、そうした境界の一端を明らかにすることだった。, そのために、まず、日本政府がJPCをどのように位置づけているのかということを記述した。そこでは、JPCは日本文化という上位概念に内包される一部として位置づけられ、JPCの人気は「「日本」の理解者とファンを増やすため」に有効だと考えられていた。, 次に、あるフランスのルポルタージュ番組において、JPCがどのような枠組みに結び付けられ、JPCを巡ってどのような線引きがあったのかを描き出した。そこでは、JPCと日本とは切り離せないものとして扱われていたが、必ずしもそれは、日本が政府レベルで主張するような、圧倒的に好意的なものというわけではなかった。また、アジアという概念が、日本を内包するものとして、頻繁に提出されていた。, 最後に、そのルポルタージュに寄せられた、匿名かつ大量の(一〇〇〇を超える)コメントを分析した。この匿名コメント群は、第二のルポルタージュ・レベルで敷かれた境界設定を変形したり、強化したり、逆転させたりしていた。たとえばJPCの帰属を巡って、日本とJPCとを引き離すもの、あるいは日本とアジアや日本とアジア内他国を対立させるような境界設定が見られた。, なお、分析対象としたコメントの特徴は、その多言語性(あわせて六言語が使用されていた)である。分析ではまた、いわゆる「炎上」が発生していた際の使用言語に注目し、媒介語として英語があったからこそ、連続的な相互否定のコメントが大量生産されたのだということを推定した。また、英語コメントの中に、否定しあう双方のいずれでもない第三者へ向けられたメッセージがあったことを指摘した。このことから、最後に、現在の「使えるようになる」「言いたいことを言えるようになる」ことばかりを重視した言語学習/教育の問題点と課題を延べた。}, pages = {171--206}, title = {日本発ポップカルチャーを巡って交錯する/せめぎあう境界 : ルポルタージュ「日本マニアの幾つかの肖像」へのコメント分析}, volume = {47}, year = {2013} }