@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000477, author = {蔡, 龍保}, journal = {日本研究}, month = {Oct}, note = {日本は明治維新以降に近代化に向かって邁進し、殖産興業にも力を注いだ。この過程の中で、官庁あるいは民間業界を問わず技術の人材が不足し、はじめのころはお雇い外国人に依存していた。東京帝大、東京職工などの技師クラスの技術者を養成する学校はわずかであり、中級技術人員「工手」(技手、職工長)を養成する学校は更に足りなかった。このような背景のもと、渡辺洪基などの旧幕臣は「技術立国」の構想をもち、「工業立国」の理念を持つ民間企業家とともに、互いに支援しあう形で一八八七年一〇月工手学校を創立させた。, 明治初期、日本の官側は都市整備を推進し、鉄道の敷設、通信網の拡大、港湾の築港、あるいは、民間企業、たとえば三井、三菱、住友、古河が経営する土木業、石炭業など、官民に関わらず工手学校の卒業生の活躍を見ることができ、重要な役割を果たしていることがわかる。初期の卒業生は、日本国内で活躍し、「技術立国」と「工業立国」の役目と機能を発揮していることが十分に見て取れる。, 注目すべき点は、工手学校の発展が日本帝国主義の対外的な拡張に歩調を合わせている点であり、工手学校と帝国官庁間が微妙な官学連関関係で相互支援を行っている点である。日清戦争後、日本は植民地台湾を獲得した。毎年、卒業生が台湾にやってきており、日露戦争までに一番人気な海外活躍池になっていた。日露戦後、さらに多くの卒業生が韓国、清国(主として、満洲)に職を求め、植民地経営に関与し、国策的な任務を支援した。日本帝国の拡張に伴い、一歩進めて植民地において国策協力の役目を担った。, 日本領台から一〇年間における、工手学校卒業生の台湾での就職、活動、移動に関する分析を通じて、卒業生が日本統治初期に台湾の官庁、民間企業で十分に活躍していたことが見てとれる。民間企業、官庁、技術者養成学校は、産・官・学の連携関係をもっており、殖民統治当局が、推進する政策に大きな役割を果たした。即ち日本が植民地台湾を統治する背後には、技術官僚、技術者を後ろ盾し、各種の植民政策を支えていた。そのゆえ、技術者養成学校は台湾総督府に不可欠な人員の補充場所だった。その一つが工手学校であった。}, pages = {131--174}, title = {明治期工手学校卒業生の海外活動 : 台湾を中心として(一八九五~一九〇五)}, volume = {44}, year = {2011} }