@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000478, author = {陳, 凌虹}, journal = {日本研究}, month = {Oct}, note = {中国における新劇は19世紀末に古典演劇を継承しながら、もう一方で近代劇の影響を受けて、両者の交錯作用によって作り出された演劇様式であり、中国の現代演劇=話劇の誕生を促した演劇様式でもある。当時は文明戯、後には早期話劇とも呼ばれた。文明戯の発祥と発展の歴史を遡ると、日本との深いつながりに気づく。明治40年代は新派が東京でその全盛期である「本郷座時代」を迎えた時期である。当時繰り返し上演されていた劇は、そのまま春柳社や留学生によって翻案・上演され、中国の劇壇に多大なるエネルギーを注ぎ込んだのである。それゆえ、文明戯と日本のかかわりを語るとなると、東京に目を向けがちになる。しかし、小論では新しい資料に基づいて、「文明戯を一つの劇種として確立させた」重要な劇団である進化団の創立者・任天知(一八七〇?~?)と京都の関係を探求する。, 論文の前半は今まで曖昧にしか語られてこなかった任天知の日本経歴を明らかにした。任天知は一九〇二年から「東亜同文会京都支部」の清語講習所講師を担当し、そして一九〇三年一〇月に京都法政専門学校・東方語学校で教鞭を採り、一九〇二年~一九一〇年の間、日中間を往復していた。この時期に、京都の新演劇は静間小次郎一派によって支配されていた。彼は新聞小説の脚色物、時事物、講談物、探偵物及び戦争物を取り上げて京都明治座で十年以上の常打ちを続けた。そこで本論の後半は、当時の京都新演劇界の様相を提示し、静間一派と任天知・進化団の演目、つまり『鬼士官』(小栗風葉原作)及び『鬼中佐』(静間一座演目)と『尚武鑑』、また『両美人』(村井弦斎原作、静間一座演目)と『血蓑衣』という二組の作品を比較して、任天知と京都の新派との間にどれぐらいのつながりがあったのかを検討した。資料の制限で、推論に止まるが、任天知が京都に滞在していた時に接したナショナリズムが高揚する時代風潮及び静間一派らの新演劇が、任のその後の演劇活動の大きな原動力と推進力になったと考える。}, pages = {175--204}, title = {中国の新劇と京都 : 任天知・進化団と静間小次郎一派の明治座興行}, volume = {44}, year = {2011} }