@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000488, author = {鈴木, 貞美}, journal = {日本研究}, month = {Oct}, note = {「日記」および「日記文学」の概念について、専門家諸姉氏の参考に供するために若干の考察を試みる。第一に、今日のわれわれの考える「日記」の概念は、前近代の中国語には見られず、今日の中国で用いられている「日記」は、二〇世紀に日本の教科書類からひろがったものとされている。中国古代においては、皇帝に差し出す上奏文に対して、いわば私人が、日々、記し、また文章を収集編集する作業がすべて「日記」である。すなわち、そのなかで、ジャンルの区別はなかった。日本古代にも、この用法が伝わっていた可能性は否定できない。業務の記録や備忘録の類とはちがう、われわれが今日、「日記」と考える内面の記録をかねた形態は、日本の二〇世紀前期に入って、イギリスの社会運動家、ウィリアム・モリスの「生活の芸術化、芸術の生活化」というスローガンのもとに、庶民や児童に日記を進めることが行われ、学校教育にも取り入れられて盛んになったものと考えてよい。, また、「私小説」「心境小説」論議が盛んになったことを背景に、古典のカテゴリーとして「日記文学」という言葉を初めて用いたのは、池田亀鑑「自照文学の歴史的展開」(『国文教育』一九二六年一一月号)、書名として使用されたのは、池田亀鑑『宮廷女流日記文学』(一九二八)であろう。それらで「日記文学」の特徴として「作者の心境の漂白」があげられていることが、すでに明らかにされている。}, pages = {425--443}, title = {<共同研究報告>「日記」及び「日記文学」概念をめぐる覚書}, volume = {44}, year = {2011} }