@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000489, author = {倉本, 一宏}, journal = {日本研究}, month = {Oct}, note = {現存する世界最古の自筆日記である『御堂関白記』自筆本は、藤原摂関家最高の重宝とされていたと、一般には考えられてきた。しかし、それはあくまで平安末期から中世にかけての状況であって、近世初期には近衛信尹によって、『御堂関白記』自筆本の寛弘五(一〇〇八)年秋冬巻の裏に、南北朝期の『後深心院関白記』(愚管記、近衛道嗣筆)の抜書が書写された。本稿ではこの抜書を紹介することによって、『御堂関白記』自筆本の近世における扱われ方の一端を示すこととする。, なお、本稿の記述は、そのほとんどが陽明文庫長の名和修氏のご教示に基づくものである。, 寛弘五年という年は、摂関家にとって、もっとも重要な年であった。道長の長女である一条天皇中宮の彰子が皇子(敦成親王、のちの後一条天皇)を出産し、一条天皇の土御門第行幸、敦成親王御五十日の儀、御百日の儀が華々しく行われ、後世、「寛弘の佳例」と称された時期であった。, 本来、巻子本として保存されていた『御堂関白記』自筆本であったが、信尹はこのうちの長徳四(九九八)年の秋冬、長保元(九九九)年の秋冬、寛弘五(一〇〇八)年の秋冬、寛弘八(一〇一一)年の春夏、寛仁四(一〇二〇)年の春夏という五巻分を折本の状態とした。そのような折本に、信尹は『後深心院関白記』の抜書を書写したのであるが、それはよりによって寛弘五年秋冬の一巻のみに限られていた。信は『御堂関白記』具注暦の末尾の裏から記し始めた。それは『後深心院関白記』延文元(一三五六)年正月一日の記事に始まり、延文三(一三五八)年六月三十日の記事にまで及ぶ。, 名和氏によると、書風からみて、この折本を作って『後深心院関白記』の抜書を書写したのは、慶長二、三(一五九七,九八)年よりも以前という。勅勘を許されて薩摩から帰京した直後、左大臣に復帰する直前ということになる。, 信尹は延文三年六月卅日条以降の抜書を中断し、信尹自身がこれを巻子本に戻し、褾紙を付けた。どのような心情によって信尹が抜書を中断し、折本を元の状態に戻したのかは、知る由もない。全体としてどれだけの分量の抜書を行う予定だったのかも不明である。}, pages = {445--462}, title = {<史料紹介>『御堂関白記』自筆本の裏に写された『後深心院関白記』}, volume = {44}, year = {2011} }