@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000504, author = {佐藤, 一樹}, journal = {日本研究}, month = {Sep}, note = {日本人にとって、修辞、典故を踏まえた正統的漢文を書くのは、実際のところ、容易なことではなく、明治初年代、中等教育から漢作文を排除する井上毅の方針は、教育関係者にすんなりと受け入れられた。しかしながら、長年にわたり文体ヒエラルキーの頂点に君臨していた漢文が、単なる教育課程の再編だけで、文化的、社会的役割が一挙に変化するわけでもない。本稿では、政府が力を入れた正史編纂事業の成果である『稿本国史眼』、および漢文体著作の最後のベストセラーである漢文戯作『東京新繁昌記』を取り上げ、明治前・中期の退潮期に、漢文体著作がどう変貌していったかを検証する。, 正史の編纂にあたった重野安繹、久米邦武らは、井上毅らから批判されながらもあくまで正史の伝統を踏まえ、漢文体で記述する姿勢を貫こうとしたが、その一方で彼らは、水戸藩の『大日本史』の論説体と一線を画す、考証史学にふさわしい新たな文体を模索する必要性を感じ、行き着いたのが記事体の漢文だった。稗史・小説や戯作の文体である記事体は、序跋や碑文、伝などさまざまな文体の中では低い位置づけだったのだが、西洋の生き生きとした叙事的歴史に惹かれた彼らが、そうした旧来のヒエラルキーにとらわれることはなかった。, ただ、漢文戯作が多くの読者を得たのは、平明な記事体漢文のためだけではなかった。『東京新繁昌記』の著者服部誠一は、新たな造語を数多く作り出すことで、文明開化の東京を活写することが可能となった。それにたいし、正史のほうは漢文戯作とおなじ、修辞、典故にとらわれない記事体を選択したものの、大胆な造語や傍訓を取り入れることまではできず、結果として本来の意図に反し、無味乾燥でそっけない叙述に終始することになってしまったのである。両者は、終局を迎えつつあった漢文叙述の可能性と混乱を示していると言えよう。}, pages = {171--186}, title = {<共同研究報告>再布置される文体ヒエラルキー : 正史と戯作の変体漢文}, volume = {42}, year = {2010} }