@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000511, author = {李, 哲権}, journal = {日本研究}, month = {Mar}, note = {漱石文学の研究には、一つの系譜をなすものとして〈水の女〉がある。従来の研究は、このイメージを主に世紀末のデカダンスやラファエル前派の絵画との結びつきで論じてきた。そのために「西洋一辺倒」にならざるをえなかった。拙論は、それとはまったく異なるイメージとして〈水の属性を生きる女〉という解読格子を設け、それを主に老子の水の哲学や中国の「巫山の女」の神話との関連で考察する。  周知のように、漱石にとって文学は二つしかない。すなわち、「漢学に所謂文学」と「英語に所謂文学」である。彼はこの二種類の文学を「到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のもの」として認識している。それと同様、〈水の女〉と〈水の属性を生きる女〉は全く性質を異にする異種類のものである。西洋の〈水の女〉のテーマ系に属する〈水の女〉は固定化されたイメージしか持たない類型的なものである。それに対して、中国の〈水の女〉のテーマ系に属する〈水の属性を生きる女〉は「人間の女」である前に、「物質の女」であり、「変化を生きる女」である。  漱石は東西を知る教養人として、この二種類の〈水の女〉を見渡せる高みを有している。そして、その高みから自分の独創性を編み出している。したがって、その独創性には一つの訣別、一つの放棄が含意されている。つまり、これから描く女を徹底的に〈水の女〉として描くことで、従来の慣習的なやり方――女を「人間の女」として描くことに別れを告げること。つぎに、そうすることで西洋伝来の古典的で排他的な手法――「人間の属性」という経験的所有の産物なる心理や精神性を登場人物たちの体に注入することを放棄すること、である。その代わりに、水という物質が有している「動の原理」を彼女たちの行動を可能にするエネルギーとして配分してやること、漱石的エクリチュールが有している独創性はすべてそこから流出(Emanatio)してきている。ゆえに、彼女たちが如何なる言動に出るかは、その心理や意思とはまったく無関係である。むろん、作家の意思やプランともまったく無関係である。  ひとことで言えば、漱石的テクストは単なる文学作品ではなく、そのような書く行為が試行錯誤的に実践される場である。したがって、そのようなテクストとの遭遇によって可能になるわれわれの読む行為も、自ずとそこに刻印されたエクリチュールの痕跡や軌跡を踏査するものにならざるをえなくなるのである。}, pages = {219--230}, title = {隠喩から流れ出るエクリチュール : 老子の水の隠喩と漱石の書く行為}, volume = {41}, year = {2010} }