@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000513, author = {モスタファ, アフマド M. F.}, journal = {日本研究}, month = {Mar}, note = {安岡章太郎は学徒兵世代の一員であったが、入隊してまもなく満洲で発熱して内地に送り帰された。二十五歳の時に金沢の陸軍病院で終戦を迎えた。安岡章太郎は一人っ子で、終戦当時は獣医でランクの高い軍人だった父親はシンガポールの戦線で捕虜となってしまった。東京の家も空襲で焼かれたということで安岡章太郎は母親と二人で鵠沼海岸にある叔父の家を借りた。父親が帰還するまでの鵠沼海岸暮らしの数ヶ月の間は"戦後"とはまるで無関係で母親とふたりだけで平和な日々を送っていた。父親が帰ってきた瞬間から安岡章太郎はどうも初めて敗戦の暗い影を肌で実感してしまったようだ。そのときから母親はまるで下宿屋のお上さんのようなイメージで、逆に父親は田舎から上京してきて部屋代も払わずに居座る叔父さんのような感じで家中は異様な空気が漂いはじめた。敗戦のツケがまるで母親だけに回ってきたような感じで、母親は一家の艱難や苦しみを背負う運命に遭った。挙げ句の果てに母親は発狂してしまい、高知湾に面するひっそりとした精神病院で変わり果てた姿で死を迎えてしまう。安岡章太郎はそのとき"戦後"が終わって敗戦の後遺症も終焉を迎えたのではないかと思ったが、これは自分の錯覚だったことに気付く。結局自分の心の中にあった本当の"戦後亡霊"を意味していたのは身の振り方の決まらない元軍人の父親の存在に他ならなかった。母親の強烈な存在の影に圧迫され続けてきた安岡は敗戦や戦後のことも含めて、諸々のことは母親を通して世界を見つめ続けてきた。しかし四十歳に近づくにつれて逆にいかに"父親の不在"の方が自分の一人の男としての"生涯"に甚だしい影響を及ぼしていたか思い知らされたわけである。, 安岡章太郎が筆を執って自らの小説家の道を歩み始めたときから、自分の少年時代からの自伝を回顧録的にひたすらに書きつづけることを通じて胸にのしかかってなかなか放してくれない戦後の亡霊を振り払うカギをずっと探し求めたと思われる。それが"父親の戦後処理"にあるととうとう気付いたが、最終的に"戦後"というものは父親やその世代の終わりで消えるものではなく、むしろ自分が父親の息子であるだけで自分もこの戦後を受け継いで生きていくサダメにあり、次の孫の世代まで逃れることなくまた受け継いでいくのではないかと悟ったようである。"戦後"は終わるものではないのではないかというのが今現在九十歳にもなって戦後作家として最後に残った時代の証言者たる安岡章太郎の結論だったのではないかと思われる。}, pages = {373--409}, title = {「家族団欒図」 : 父親の再婚と"敗戦"の終焉}, volume = {41}, year = {2010} }