@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000522, author = {戸矢, 理衣奈}, journal = {日本研究}, month = {Nov}, note = {資生堂の企業イメージを考える際に、資生堂パーラーの存在は不可欠であろう。大正から昭和初期にかけて、資生堂は銀座の一薬局から化粧品メーカーへと急速な拡大を遂げるが、同じ時期に資生堂パーラーや資生堂ギャラリーが本格的な活動を開始し、銀座の都市文化を先導した。, 資生堂パーラーは、資生堂創業者である福原有信が一九〇二年に、当時薬局であった資生堂に日本で初めてのソーダファウンテンを設置したことにはじまる。有信の三男、福原信三は一九一五年に経営に参加すると薬局から化粧品部門を独立させ、さらに小売店からメーカーへと事業を拡大して全国への展開を図った。, 当時は化粧品大手各社が激しい広告競争を繰り広げていたが、信三は新聞や雑誌などへの広告に加えて、パーラーを筆頭に小売店舗全体の雰囲気を資生堂独自の広告として捉え、資生堂のイメージづくりに尽力した。, 資生堂パーラーは従来の「和室で茶の湯」に対して、「洋間(パーラー)で珈琲」という新たな社交様式の象徴的な空間となり、洋行を経験した当時の新興エリート層に好まれた。, 化粧品メーカーによる飲食店の経営は当時としても異例であるが、信三は「すべて環境に支配される」とも明言している。帰朝者たちは環境が人々の嗜好を形成するという感覚を共有していたが、信三はいわば「衣」の領域である西洋風の化粧品販売にあたり、「食」「住」という環境面から啓蒙的な役割を果たしていたのである。, 資生堂パーラーは銀座で女性が気兼ねなく入れる喫茶室としても最初のもので、銀座に女性を動員するのにも貢献し、昭和初期にモダンガールが銀座に登場する舞台ともなった。}, pages = {277--317}, title = {広告としての資生堂パーラー : 交際様式の変容と「パーラー(洋間)」}, volume = {40}, year = {2009} }