@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000534, author = {戸矢, 理衣奈}, journal = {日本研究}, month = {Sep}, note = {銀座に有名店は多々あるが、資生堂はその代表格であろう。「東京銀座資生堂」という商標は海外も含めて広く親しまれている。しかし一八七二年に福原有信が日本初の西洋調剤薬局として創業して以来、資生堂は「東京新橋資生堂」として知られていた。有信の三男、福原信三は経営に参画すると共に化粧品販売に本格的に参入し、意匠部を設立するなど、従来のイメージの一新を図った。一九二一年に「東京銀座資生堂」の商標を採用し、短期間に「資生堂といえば銀座」という、強力なイメージを定着させる。本校では信三が五十名を超える文化人らの寄稿を得て完成した『銀座』をはじめ、信三による銀座にまつわる著作を検討し、信三と銀座とのかかわりや、資生堂のブランドイメージ構築の背景について論じる。, 福原信三は当時、東京の都市計画を主導していた東京市や内務省に対して、銀座の商店の声を代弁するいわば銀座のスポークスマンとして精力的に活動した。当時の銀座は一九一四年の東京駅の開業に伴う新橋駅の閉鎖や、三越を筆頭にした日本橋のデパートの興隆のなかで、かつてない危機的な状況におかれていた。信三はこれまで正式な町名としては四丁目までしかなかった銀座を八丁目まで拡大する「大銀座」計画や、銀座全体をアーケード化し、建物や通りの景観を整えるとともに銀座の商店が協力して共同入荷を行う提案など、銀座の商店が共存共栄できるように様々な画期的な提案を行った。, 信三の提案は新聞などに掲載され、強い影響力を持った。「大銀座」計画を筆頭にいくつかは実現されて、現在の銀座の基盤をなしている。一方で信三は銀座の商店それぞれが専門性を高めて、独自の個性を持つべきであることを強調する。銀座が特色ある店舗の集合体になってこそ、デパートに対抗することができるというのである。, 資生堂でも化粧品の販売ばかりでなく、資生堂ギャラリーや資生堂パーラーを開くなど、銀座そして資生堂の独自の雰囲気を重視した様々な活動を通して銀座への集客に努めた。, 福畑信三は都市のイメージが企業や商品のイメージに与える力を明確に意識し、化粧品の製造やデザインと同時に、銀座という都市のイメージを高めることに尽力した。いまや「銀座」というイメージは資生堂がもつ最大の無形資産のひとつでもあるが、福原信三による銀座全体を見据えた活動がその原点となっている。}, pages = {53--79}, title = {「東京銀座資生堂」の誕生 : 福原信三と銀座イメージの構築}, volume = {38}, year = {2008} }