@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000571, author = {猪木, 武徳}, journal = {日本研究}, month = {May}, note = {本稿は、「公共性」を論ずるためのひとつの試論として、企業の「公共性」の問題を国際比較の視点から考察する手がかりを探る。伝統的な経済学は、大企業や労働組合のような、国家と個人の間に存在する「中間的な組織」の機能や役割に十分な注意を向けず、高度に発達した産業社会を、「独立した合理的な個人」の市場競争と「国家」による統制と介入という二元的な対立図式で特徴付けてきた。しかし中間組織が、民主制と市場経済において果たす役割は今後極めて重要になると考えられる。その最大の理由は、おそらく巨大化し複雑化した現代の経済社会は、その全領域を私(private)と公(public)という二つの局面で区切るだけでは、経済社会が抱える問題に十分に対処できなくなってしまった点にある。, 本稿では議論を少し具体的にするために、利潤最大化行動からは説明できないような役割を企業が果たしている場合を考える。その例として、企業による源泉徴収業務や福利厚生費用の一部負担がある。企業が公的機関の代理者としての社会的役割を果たしている例であるが、これらの業務をなぜ企業が行うのか(行わざるを得ないのか)という問いへの明確な答えはない。, 源泉徴収業務だけでなく福利厚生の場合も、企業が本来的な業務以外に行う部分がかなりの勢いで増加してきている。福利厚生は企業の責任から個人の責任にすべきであると強調する考え方もあるが、全般的なトレンドとしては、企業の福利厚生業務は、従業員の健康から食生活、引退後の生活、あるいは子弟の教育にいたるまで、生活のかなりの側面をカバーしているのが世界的現象なのである。その他、企業が雇用保険など社会保険の保険料の一部を負担していることは言うまでもない。, 次に共同善(common good)へむけた企業の能動的な貢献という面へ目を向ける。企業の「社会的責任」は、企業の行動・選択が、社会的に望ましくない結果を生み出した時に問われる「責任」であるが、この概念の内実にはいまだ十分熟していないきらいがある。「責任」という言葉は、ときとして二つの意味を区別することなく用いられることがある。それは「責任」の反対語として二つの言葉亜存在することからも明らかであろう。ひとつは、①責任があるのに果たしていないという「無責任(irresponsible)」という言葉、いまひとつは、②そもそも責任の所在がないという「責任制の欠如(unresponsive)」という言葉である。現代の産業社会では、後者の場合のように、責任の所在がないところに、「約束事として」責任を割り振ることによって(倫理的問題ではなく)「政策的問題」として問題を処理しようとするケースが増加している。, 企業活動は常に「利害」が関係する、したがって企業は、カント的な意味での倫理とは無縁である、とする考え方もある。カントによると、行為の道徳的価値の特徴は「利害」から離れたところにある。このカントの考え方に従うとすれば、「利害」からなされる行為が一切の道徳的価値を失うことはたしかであろう。企業活動の中心は「利害」であるから、「企業倫理と道徳は無縁」ということになる。経済は反道徳的なのではなく、非道徳的なのである。, 利潤動機そのものが悪いのではない。利潤動機自体は、誇るべき動機であり、人類が富を創出したのはこの利潤動機であったことを見過ごしてはならない。むしろ、利潤動機に「行き過ぎ」があったことが問題なのである。ではその「行き過ぎ」をどう是正すればよいのだろうか。ここに社会的な存在としての企業の「倫理的」選択問題が現れる。それは「行き過ぎ」をチェックするために、自発的(voluntarism)でもなく強制的(coercion)でもないような形で、相互に自己規制しあうような枠組みをつくることではなかろうか。例えば、経済団体のような中間組織が環境問題に対する注意を喚起して相互に環境破壊に通じかねないような経済活動を規制したり、「ビジネス・エシックス」につながる啓蒙活動などは、過去にも現在もその例がある。互いに自己規制し合いながら競争する枠組みをつくり、それに従わないものが「社会的制裁」を受けるような自己規制の仕組みが必要となる。}, pages = {189--200}, title = {Social lnstrumentとしての日本企業 : 「公共性」の国際比較のための概念整理}, volume = {35}, year = {2007} }