@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000589, author = {小林, 善帆}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要, BULLETIN OF THE INTERNATIONAL RESEARCH CENTER FOR JAPANESE STUDIES}, month = {Mar}, note = {本稿は、「花」(いけばな)の最初の様式である「たて花」について、その成立と深い関わりを持つ連歌会・七夕花合・立阿弥の「花」、さらにその相関関係について検討する。いわば「たて花」を、整合性という視点から概括的に捉えることを目的とするものである。また歴史学の観点に立つものではあるが、連歌・連歌会のありようについては国文学、また建築史ほか関係諸分野の研究を随時取り入れ、論を成すものとした。そして以下のことを明らかにした。, 連歌会の「花」は、二条良基のいわば十四世紀後期以降の連歌会で、天神画ないしは「天神名号」の軸を掛け、その前に花瓶や香炉をおくことに始まった。禁裏連歌会の「花」は、連歌会の興盛に伴いおよそ一四八〇年以後、「しん」「下草」のほか「右」「左」などの枝で構成され始め、「たて花」として、天神への供花という存在から独立していく様子をみせる。しかし一方で、天神の存在から独立したものでないことも否めない。また、『殿中規式』および葉阿弥の存在から、将軍家の連歌会の「花」の進展が、禁裏と同様であったことが窺える。古記録を読む限り公武の文化交流は随所に見出され、当然のなりゆきといえよう。, また連歌会の天神への供花としておかれた「花」が造形性を帯び、「豪壮」ともいわれる「たて花」として独立する一方で、花材も一~三種類くらいの簡素な「たて花」も存在し続け、それは今日に至っている。七夕花合の「花」は、この場合の後者の形と捉えられる。, 足利義教期には「花」は座敷飾りに添えられる程度であったが、応仁の乱前後以降、足利義正期の立阿弥や台阿弥の「花」は、「花」を立てる技術や花材が問題にされる一方で、花瓶(唐物鑑賞)は問題にされていない。これらのことからは、「花」即ち座敷飾り、即ち立阿弥の「花」ということにはならない。さらに「たて花」の確立した、一六世紀後期に成立したと考えられる絵巻『猿の草子』から、少なくとも「花」は、客などを迎える座敷の座敷飾りの三具足の「花」・押板の「花」・書院の「花」、また連歌会の「天神名号」に対する供花としての「花」、茶の湯の席の「花」があったことが考えられる。, 「たて花」という様式は今日存在しないが、「豪壮」な「たて花」は、一六世紀中期、供花から独立し単独で飾られるようになり、さらに一七世紀初期「立花(りっか)」となり、今日存在している。一方、簡素な「たて花」は仏前・神前供花、茶花、投げ入れ花、文人花などと名前を変え、今日存在している。「たて花」とは、さまざまな「花」の型の可能性を秘めた「花」の様式であった。}, pages = {51--88}, title = {たて花 : 連歌会・七夕花合・立阿弥の「花」をめぐって}, volume = {34}, year = {2007} }