@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000601, author = {コズィラ, アグネシカ}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Oct}, note = {この論文の目的は、西田幾多郎の哲学における「絶対無」とハイデッガーの哲学における「本来的無」とが、同じ「パラドックス論理のニヒリズム」という思潮に分類できることを証明することである。「パラドックス論理の無」は、無矛盾原則に従う「形式論理の無」と違って、「有に対立する無」ではなく、「有即無」というパラドックスを意味している。西田の「無」とハイデッガーの「無」とは、すべての対立を超えると同時にすべての対立を超えない、すなわち「否定即肯定」の「パラドックス論理の無」であることを本稿にて明らかにしたいと思う。, 「パラドックス」という概念は、ここでは哲学の課題として論じられ、「二次元的矛盾的判断」として定義されている。西田の絶対矛盾的自己同一の論理、すなわち「背理の理」(パラドックス論理)を、何の法則・原則にも従わない「非合理的無分別」と同一視してはいけない。, この論文の第一章では、まず「肯定即否定」という「矛盾原則」に従う「パラドックス論理のニヒリズム」の特殊タイプの特徴を論じ、西田の「絶対無」とヘーゲルの「弁証法的無」との差異を明らかにしている。また、西洋哲学におけるプラトンの「コーラ」、キリスト教の神秘主義の代表になるエックハルトの「神性」(Gotheit)、ヘーゲルの「弁証法的無」、キルケゴ-ルのパラドックス、サルトルの「無」、ポストモダニズムにおける形式論理的「理性」への批判などを考慮にいれれば、「東洋的無」は、「パラドックス論理のニヒリズム」の重要な特殊タイプになることが確かであるが、パラドックス論理(背理の理)は世界の哲学史における普遍的な課題として看過できない、と述べている。, 続いて晩年の西田の論文におけるパラドックス論理の自己矛盾原則とその具体的使用の例を挙げ、晩年の西田の哲学のパラドックス論理枠内の解釈と形式論理枠内の解釈(田辺元の立場)の相違が明確にされるようにする。田辺は西田の「絶対無」の哲学が非合理的であると指摘しているが、西田は、ものの相対性を証明し、絶対矛盾的自己同一の論理と現代物理学(アインシュタインの相対性原理と量子力学など)との関係を論じていた。, 第二章では西田哲学とハイデッガー哲学は、異なる点が多いにもかかわらず、同じ「パラドックス論理のニヒリズム」の思潮に属していることを論証する。ハイデッガーの「本来的無」と西田の「絶対無」とを比較するにあたっては、形式論理の枠内の解釈(例えば、溝口宏平氏の解釈)があるが、両者の無の哲学はパラドックス論理の観点から解釈すべきであると考える。, 西田は、「パラドックス論理の無」という概念は禅をはじめ仏教哲学を理解するための重要な鍵であることを主張したのである。本稿では、禅師の教義・西田哲学・ハイデッガー哲学におけるパラドックス的判断の分類も挙げている。西田哲学における「東洋的無の哲学化」という問題を「パラドックス論理」の立場から論じ、なぜ西田が、仏教の教義は汎神論でもないし神秘主義でもないと主張したかを、説明している。, 「パラドックス論理のニヒリズム」という概念はこれまでに使われたことはない。しかし、西田哲学における絶対矛盾的自己同一としての「絶対無」のパラドックス論理の構造を認識しないと、晩年の西田の哲学の画期的な意義を見逃すおそれがある。「絶対矛盾的自己同一」の論理には「背理の理」すなわちパラドックスの論理として重要な形而上学的意義がある。}, pages = {93--149}, title = {パラドックス論理のニヒリズム : 西田とハイデッガー}, volume = {33}, year = {2006} }