@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000615, author = {ルィービン, ヴィクター}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Mar}, note = {ロシアのサンクト・ペテルブルグにおける日本語教育、日本研究の歴史は、一八世紀初頭、ピョートル一世がカムチャッカに漂着した日本人水夫デンベイ(伝兵衛)をシベリア、モスクワを経由して招き寄せ、日本語クラスを開かせたことをもって嚆矢とする。, 以後一八世紀の半ばまでは、漂流日本人による日本語教育が断続的に続く。母国日本ではほとんど知られていない異国ロシアの地で、日本語教育が行われ、かつ、露日辞典さえも編纂されていたのは、世界史的にも異例のことであった。, 一八七〇年、日本語学習がサンクト・ペテルブルグ大学に選択科目として開設され、来露する通訳や管理などの日本人が交代で教壇に立った。一九世紀末には日本語科がようやく設立されて、日本語教育、日本研究は本格化し、同時に優れたロシア人の日本研究者が続々と巣立ち始め、「日本学派」の基礎が形成されて行ったのである。, しかしロシア革命後の政治状況は暗黒時代を迎え、外国語の知識がある、あるいは、外国留学の経験のある多数の知識人がスパイ扱いを受け厳しい弾圧により落命した。その中には著名な日本研究者も含まれており、日本研究分野は大きな痛手を蒙った。, 第二次世界大戦後、日本研究は再び力を取り戻し、その分野も語学、文学、歴史から地理、民族、宗教などへと多岐にわたって行った。ソ連崩壊後は、全ロシアで日本語学習、日本研究の熱は一層高まっていると見られるが、サンクト・ペテルブルグ大学日本語科は創立一〇七周年を迎え、ロシアにおける日本学の一大拠点として充実した教育・研究活動を続けている。}, pages = {261--284}, title = {<研究ノート>サンクト・ペテルブルグ(ロシア)における日本語学習と日本研究の300年のあゆみ}, volume = {32}, year = {2006} }