@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000622, author = {輪倉, 一広}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Oct}, note = {岩下壮一(一八八九~一九四〇)はカトリック司祭であり、一九三〇年から一九四〇年までの晩年の一〇年間「神山復生病院」の第六代院長として救癩事業に従事した社会事業家であった。また、岩下は昭和戦前期における中心的なカトリック思想家でもあった。, 本論における問題意識は、一九三〇年代という天皇制が社会に浸潤し君臨した時代にあって、時代の要請としての国民統合に求められる二段階の要件である「権威性」と「民衆性」に対して、現実の思想がどのように応答しようとしたのか、あるいはどのような応答の可能性をもっていたのか、という問いを契機としている。それゆえ、本稿では岩下の時代思潮への応答に加え、具体的な実践としての救癩事業の検証から実証的に問い直すことにより、岩下の思想の立場と構造を明らかにしようとするものである。, 岩下は、思潮としてのマルクス主義の思想基盤である唯物史観が、権力構造の相対的な体系的把握に寄与しつつも実在論的な観点からとらえられる権威の側面を捨象する思想であるとして退けた。また、天皇制の思想基盤である皇国史観を包括的に承認しつつも、それが未成熟な権威性に留まっているナショナリズムに基づくものであるとして批判した。さらに、皇国史観に関連して、救癩に代表される皇恩についてみれば、岩下にとって救癩派国民道徳の問題であり、それは岩下の認識においてイニシアティヴ(国民発案)様のあるいは公準としての皇恩報謝を意味した。それゆえ、従来、権威の下部構造に投射される民衆性の側面を否定されてきた癩患者に対して、その回復こそが岩下の中心的な救癩思想となった。, こうした岩下の思想を、お召し列車の奉送機会の設定という具体的な救癩実践に照らして検証してみると、そこには概念としてのカトリシズムにおいては容易に見出しにくい、国民的・民族的アイデンティティに基づいた民衆性を主体化させるという実践思想が存在し、強固に機能していたことが明らかになる。}, pages = {115--141}, title = {岩下壮一における権威性と民衆性}, volume = {31}, year = {2005} }