@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00006224, author = {芳賀, 徹}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Jul}, note = {十八世紀後半、日本列島の東北の一隅である秋田藩に発生した洋風画、いわゆる「秋田蘭画」については、一九三〇年の画家平福百穗による最初の発見(『日本洋画曙光』)以来、今日にいたるまですでに多くの研究がなされてきた。だが、視野をひろげ、また焦点を絞ってみると、秋田蘭画は今日なおさまざまの「不思議」を私たちの目に提示している。一七七三年、秋田藩の一隅の無名の青年武士(小田野直武)は、なぜあのように強く敏感に、江戸からの来訪者平賀源内による洋風画のイニシエーションに反応することができたのか。その直武が江戸に出ると、いったいどのような事情から、直ちに『解体新書』附図の作成という大事業に参加することとなったのか。直武の師源内の油彩画『西洋婦人図』は、なぜ源内作といえるのか。そしてその婦人像が十九世紀初頭のアメリカ・ニューハンプシャーの無名女流画家による少女像と、ほとんど姉妹関係を結ぶのは、両者の背景にヨーロッパ本場のなんらかの共通の母ないし祖母の像があるからにちがいない。トマス・ジェファソンが、そのモンティチェロの館の書斎で、一七七〇年代の鈴木春信の画中の娘とまったく同形の「のぞき眼鏡」を楽しんでいたのも、独立時代のアメリカと田沼時代の徳川日本が、ヨーロッパから文化的にほぼ等距離にあったからである。秋田蘭画、またそれに続く洋風画の中にも背後にも、「鎖国」をこえる西洋世界への好奇心と、模索と、憧憬と、共感とが、強く深く働いていた。}, pages = {65--102}, title = {秋田蘭画の不思議 : 小田野直武とその同時代世界}, volume = {14}, year = {1996} }