@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000623, author = {李, 郁蕙}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Oct}, note = {本論の目的は、台湾、朝鮮の日本語文学と日本近代文学とのテクスト内部における表現上の接点を考えることにある。まず、日本語文学として、台湾では張文環の「父の要求」や呉濁流の『アジアの孤児―日本統治下の台湾―』、朝鮮半島では牧洋の「東への旅」に注目してみた。これらの三作には植民地出身の主人公が皆、東京留学の間に「未亡人」の家に下宿していたという共通点があげられる。なおかつ、三人ともその家の一人娘に恋慕を抱きながらも、民族問題を乗り越えられないまま去ることになった。このような設定は、実際、日本近代文学でよく指摘される父の消去という特徴に通じるものがあり、そして具体的には夏目漱石の『こころ』を想起させる。この意外な共通性から、『こころ』における「未亡人」の家の意味合いを考え直し、そこに「家長」たるものがいないため「先生」と「未亡人」双方をつなぎとめるには、必要で適切な場所だったということを確認した。, これに照らし合わせれば、日本語文学のテクストにおける「未亡人」の家も相似的な機能を持つことが分かる。けれども、被植民者の立場にいる主人公たちにとって、その家に入ることは精神的な次元にとどまらずに、身分的に「日本人」として見なされ得るか否かというよりシリアスな問題である。彼らが最終的に諦めざるを得なかったのは、その家に光と影、すなわち母性的包容と父性的排除が同時に存在しているからだと考えられる。この意味において、その家とは、「血族ナショナリズム」と「言語ナショナリズム」という二大原理に基づいて植民地統治を行う「大日本帝国」の隠喩ではないかと読み解くことができる。}, pages = {143--158}, title = {「未亡人」の家 : 日本語文学と漱石の『こころ』}, volume = {31}, year = {2005} }