@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00006443, author = {谷口, 雄太}, journal = {日本研究, NIHON KENKYŪ}, month = {Jan}, note = {本稿では十四世紀後半~十五世紀前半の吉良氏の浜松支配につき、特に寺社統制の問題を中心に検討し、その上で、一国の領主と守護の関係、連動する都鄙の姿、都鄙を結ぶ道の実態についても指摘した。, 第一章では十四世紀後半の吉良氏と浜松につき検討した。観応擾乱後、幕府に帰参した吉良氏は、斯波派と組んで中央で復権し、浜松も獲得した。だが、同氏は同時期、斯波派とはライバル関係にあたる今川氏とも姻戚を構築した。その理由は地方の在り方、具体的には遠江・浜松をめぐる政治情勢にあった。浜松領主吉良氏―遠江守護今川氏の関係から両者は姻戚を結んだのである。, 吉良氏の浜松支配を見ると、それは十四世紀に始まった。しかし、そこは真言宗が威勢を誇る場であった。かくして吉良氏は真言宗勢力の相対化を図り、その寺領を没収して禅僧に寄進し、禅宗を浜松に引き入れようとした。だが、それは失敗した。理由の一つは真言宗の強い反対、もう一つは守護今川氏の非協力である。吉良氏は中央では斯波氏と、地方ではそのライバル今川氏と組むという外交を展開した。しかし、それは今川氏が守護を務める遠州に、斯波氏と近い禅宗を導入するという点ではマイナスに働いた。二重外交の限界である。, 第二章では十五世紀前半の吉良氏と浜松につき検討した。十五世紀、浜松の信仰空間は一変した。禅宗が台頭したのである。こうした変化の背景としては新遠江守護斯波氏との緊密な関係と守護による遠江支配の安定の下、吉良氏も浜松内外で領主支配を深化させることに成功したこと、そして、今川氏が遠江守護を務めた全盛期とは異なって、都鄙ともに斯波氏と連携するという時代に移り、吉良氏にとって二重外交状態が解消したことで、禅宗の遠州浜松への導入に障壁がなくなったことが大きかったとした。, 以上をふまえ、一国の領主にとって守護と協調することの重要性、地方の在り方が中央政治に与える影響、必ずしもスムーズに展開しない都鄙間の禅宗の道を指摘し、近年の室町期権力論を批判・補完した。}, pages = {7--37}, title = {<研究論文>室町期在京領主吉良氏と遠江国浜松庄}, volume = {54}, year = {2017} }