@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000655, author = {小林, 善帆}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Dec}, note = {十五世紀中期の「たて花」の生成期については詳細な研究がなされておらず、物事においてその発生期を明らかにすることは不可欠のことであるにもかかわらず、当該期の「花」については推論の域を出ることはなかった。本稿では、この時期の連歌・和歌素材に「瓶に挿す花」が使用されたということを糸口に、「たて花」の生成期の様相を、国文学・歴史学の相互関係のなかから考察した。, そこからは、東福寺禅僧で歌人であった正徹の和歌素材として「瓶に挿す花」が詠まれたことと、東福寺において供花、瓶に花を挿すこと、植栽、観花、どれをとっても盛んにおこなわれていたこととは無縁ではなかったと推察される。, 他方、連歌素材として「瓶に挿す花」が詠まれたことと、「花」がその最初の様式である「たて花」へと発展したこととは相互に連関があるが、専順と「花」や「池坊」との関係の考察からは、専順が「池坊」の人であり「花」と関わりが深かったということは、必ずしも確かではないといわざるを得ないであろう。, また「挿す」・「立てる」の使用の相違については、禅僧・公家それぞれの社会における慣習から来るものと考えられるが、連歌・和歌において「挿す花」と詠まれるものが「花」の様式として「たて花」と呼ばれるのは、将軍家、伏見宮家、禁裏それぞれの座敷飾りにおける「花」を扱う者たちが、慣習的に「立てる」という表現を使用していたためと思われる。, さらに伏見宮家の連歌会の在り様からは、連歌というものが元来、月見・花見等をしながら行うものであり、「花」を観賞しながら連歌を巻く(する)ということは当然の形であったが、和歌にはそのような形はみられない。この相違が「瓶に挿す花」を連歌は素材とし、和歌は素材としないという結果を生み出す一因となったのであろう。, これらのことからは、「たて花」の生成期を担ったのは「池坊」というよりも、むしろ禅宗寺院や公家、禁裏、仙洞、将軍家、武家邸宅という場やそこに集う人々であったと考えられる。}, pages = {343--371}, title = {<研究ノート>生成期における「たて花」 : 十五世紀中期の「花」と連歌の一要素}, volume = {29}, year = {2004} }