@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000657, author = {李, 哲権}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Jan}, note = {『こころ』は、高校の教科書に選ばれるほど立派な寓意物語ではない。つまり、そこからある種の立派な人格の師範めいたものを見つけ出そうとしてはならない。そこには最初からそのようなものは存在していない。『こころ』はいってしまえば、玉ねぎのようなもので、一枚ずつその皮を剝いていっても、そこにはアプリコットのような核はないはずだ。なぜなら、遺書とは、血(=死)のインキで書かれた「心」、つまり折り畳まれた「心」のようなものであるから。そして心とは心臓であり、心臓とは命の宿る場だから。私たちが心臓をたち割ったとき、そこに赤い血潮と白い心筋はあっても、そこにあると固く信じられていた命=生命がないのと同様に、遺書には主体による<意味>の痕跡=書き込みは何もなされていないはずである。, したがって、私たちが『こころ』を読むという読書行為は、そのように折り畳まれた遺書を丁寧に展げていって、折り目の痕跡をくまなく踏査することである。『こころ』の至る所に、包まれた洋菓子、包装された椎茸、丸められた卒業証書、丸められた絵巻物、折り畳まれた遺書、そういったものがさりげなく書き込まれているのはそのせいである。『こころ』は<包む>、<畳む>、<丸める>といった求心的な述辞を、<展げる>、<伸す>、<展く>といった遠心的な述辞に置き換えることで、建築物のように組み立てられたテクストである。言い換えれば、「心」という名辞を、<畳む>と<伸す>という述辞が形成する力学圏に挿入することで織り上げたテクストである。}, pages = {47--144}, title = {心をよむ難しさ : 漱石の『こころ』を読む}, volume = {28}, year = {2004} }