@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000676, author = {西槇, 偉}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Dec}, note = {本論は中井宗太郎(一八七九―一九八六)著『近代芸術概論』(一九二二)と豊子愷(一八九八―一九七五)による中国語抄訳『近代芸術綱要』(一九三四)を比較検討することにより、民国期の西洋美術受容と日本との関わりや、共通する特徴を明らかにしようとするものである。, 中井宗太郎はその『近代芸術概論』において、人格を芸術創作の基準に西洋近代画家を論じた。彼によれば、西洋近代絵画は優れた人格を持った画家達によって発展を遂げてきた。中井は取り上げるすべての画家の人格に言及し、強調している。ドラクロワは想像力に富み、情熱的であり、ドーミエ、ミレー、ギースもそれぞれ突出した人格の持ち主である。クールベは過去の伝統や模倣という技法に反発し、その性格は革命的である。印象派画家のドガは人嫌いで、孤独な人間であった。, さらにセザンヌは近代芸術の分水嶺となる人物だが、彼は自然に霊感を得て作品制作をした。中井は彼を山野に隠棲する東洋的な隠者と見なした。ゴッホに至っては、中井には「東洋的な禅僧」と映った。これらの画家には往々にして商業に対する嫌悪感が見られ、それも人格の高さを強調する働きをした。ドガは商人を嫌い、セザンヌも名誉には無関心であった。, 以上のような画家像はむしろ東洋的なものだといえよう。東洋で重んじられた文人画家は、学問や道徳にすぐれ、自然に親しむ宗教者も多かった。彼らは職業画家ではないので、絵を売ることには執着しなかった。, 西洋近代画家のイメージが東洋的になったばかりでなく、彼らの芸術理念、美学もまた東洋に近づいた、と中井は主張した。セザンヌやゴッホの芸術には主観的な傾向が見られ、彼らの芸術は主観と客観の融合を通して、宇宙自然に流れる生命のリズムを表出している、と中井は西洋近代表現主義と東洋古来の表現主義精神を同一のものと見なした。自然に憧れ、タヒチに逃れるゴーギャンの作品にも自然と人間の一体感が表現されており、それはある意味では東洋表現主義手法によるものでもある。, なぜ東西の表現主義が同一視されたのだろうか。, 東洋と西洋の差異が強く意識されていた当時、東西の価値観はよく対立したものと受け取られた。西洋の衝撃を受け、価値観の取捨選択を迫られた矢先に、西洋近代芸術が日本などの影響を受け、変貌を遂げたことが注目され、西洋画が東洋風になった、と受け取られた。作品からも美学においても東洋に近づいたということは、東洋的価値観の再評価ということであり、西洋に対抗できる価値観を自らの伝統のうちに発見したということである。, 同じように西洋に対峙していた中国は日本と同様、対抗する価値観を必要としていた。翻訳者の豊子愷は中国に西洋美術を紹介していた。彼は中井の理論をほぼ完全に受け入れた。そのうえ、西洋が東洋に近づいたことを根拠に、東洋あるいは東洋の代表である中国の優越を主張した。彼の「中国美術優位論」(一九三〇)の根が日本にあった。, 原作と抄訳の違いは二つある。一つはルノワールをめぐり、評価が分かれ、豊子愷はルノワールの商業的姿勢を批判し、裸体画を描くことについても高くは評価しなかった。もう一つの違いは、中井が西洋に対する日本の影響を強調するが、抄訳ではそこに中国が付け加えられたことである。それは中国の優位を示すのに必要だったからである。, 西洋近代表現主義は、自然を超えようとするもので、かつての東洋表現主義は自然との一体化を目指したものだった。双方はかなり異なる。違いを無視した同一視は性急であった。それは外来文化に対して示された反応の一典型ともいえる。異文化に自らの文化と共通する要素を発見し、それを同一視しようとする意志が働きがちである。中井に見られるように、日本の西洋美術受容には文学者などによる、画家や美術をめぐる文献記述、言説の需要が重視され先行していた、という特徴がある。そうした特徴が豊子愷においてさらに顕著になったといえる。}, pages = {143--183}, title = {東アジアから見た西洋近代美術 : 民国期の西洋美術受容と日本}, volume = {26}, year = {2002} }