@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000704, author = {原, 秀成}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Mar}, note = {一八八六年の文芸作品の保護のためのベルヌ条約により、各国で著作権法制が整備された。領事裁判権撤廃の条件として、日本はベルヌ条約への加入を迫られた。日本はベルヌ条約の基準にあわせるように、一八八七年版権条例、一八九三年版権法、一八九九年著作権法を順次立法し、一八九九年にベルヌ条約に加入した。  そのなかで、とくに雑誌記事の著者の権利が拡張された。本稿では、第二次世界大戦前の日本の最大の出版社だった博文館の創業の雑誌『日本大家論集』の他の雑誌から無断転載の適法性を、各時点において検討した。  第一に、一八八七年版権条例以前に、雑誌の版権は保護されていなかった。それゆえ一八八七年六月の同誌創刊時の無断転載は、適法なものであった。  第二に、一八八七年一二月の版権条例で、学術雑誌について版権取得の道が開かれた。明治政府は学術雑誌の版権だけを保護し、政治や文芸を掲載する雑誌には版権保護を与えなかった。こうして明治政府は、検閲より間接的な経済的かつ私法的な方法によって、メディアの統制に統制する法技術を導入した。一八八九年の大日本帝国憲法の施行前に、これらの法を一方的に制定したのである。  第三に、一八九三年版権法によって、すべての雑誌に版権登録の機会が認められた。「禁転載」規定も導入され、一八八六年ベルヌ条約第七条の基準に、ほぼ準拠するものとされた。  第四に、この一八九三年の版権法によって、無断転載はほぼ不可能になった。博文館は、近衛篤麿(一八六三―一九〇四)の国家学会における講演録を転載したとして、国家学会から訴えられた。一八九四年の近衛事件の背後には、立憲改進党系の活動への弾圧があったと考えられる。博文館主の大橋佐平(一八六三―一九〇一)は、立憲改進党に加担していた。内務省は版権を手段に、博文館の活動に圧力をかけた疑いがある。博文館は実利をとって和解したと考えられる。そのうえで、一八九四年末に雑誌『日本大家論集』をいったん廃刊にした。そして一八九五年一月から、新たに雑誌『太陽』を発刊した。それは日清戦争の勝利を賛美するものであった。  第五に、こうした雑誌についての法制度は、政府と雑誌発行者とのより隠れた形での結びつきを許したと考えられる。雑誌の版権は、発行者がもつとされ、雑誌の筆者個人の権利は副次的なものとされた。それは一九世紀末の条約が、国家どうしの合意であり、個人が個人の権利として、主張しにくいことに根本的な原因があったといえる。それゆえ個人単位としての著者の権利、読者の権利を「人権」の視点から充実させていくことが課題にのぼる。}, pages = {143--178}, title = {雑誌の法と博文館 : 整えられる近代}, volume = {23}, year = {2001} }