@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00007056, author = {重田, みち}, journal = {日本研究, NIHON KENKYŪ}, month = {Nov}, note = {日本中世の能楽論書『風姿花伝』五篇のうちの神儀篇は、能楽史研究をはじめ藝能史・説話史研究、民俗学等の資料として注目されてきた。しかし、その成立時期や著者を純粋に世阿弥と見てよいかどうか等、文献学的な問題が多く積み残されている。また、同篇は従来、既成の伝承を比較的素朴に綴った猿楽伝説と見られ、その著述に世阿弥の特別な意図がなかったかどうかなど、伝書としての性格や史料論的な観点に注目した検証は行われていない。, これらの問題について、同篇の文献学的問題に関する従来の考察において眼目とされている「さるがく」を「申楽」と表記すべきとする同篇第三条の「申楽」命名由来説にあらためて着目し、先行研究を参照しつつ考証・考察を行うと、同篇は『風姿花伝』完成直前の応永二十五、二十六年(一四一八、一四一九年)の著述と推定される。「申楽」命名由来説は、中国後漢の字書『説文解字』や日本書紀・神道説関連の知識に基づいており、その教養を有する知識人が考案したと推測される。また同篇の用語・説の内容・文体から、その人物は神儀篇の素案の執筆をも行ったと見られるが、最終的にそれに手を加え、猿楽の神道性・日本国性を強調して全体をまとめたのは世阿弥だと考えられる。その世阿弥の意図は、一つには、桃源瑞仙『史記抄』滑稽列伝所収関連逸話の参照により見出されるように、大和猿楽を「神楽」の藝系であるとして、興福寺薪猿楽の際の春日社への翁猿楽奉仕をその根本の務めと位置付けることにあり、もう一つには、太子及び村上天皇統治期の由緒に基づき、猿楽の国土安穏・寿命長遠の効用を示すことにあったと見られる。その背景として、当時の足利義持が田楽新座の増阿弥を厚遇したために、大和猿楽観世座を率いる世阿弥が自座の存続に危機感を抱き、都以外の春日興福寺との関係保持に力めたなどの事情を想定しうる。, このように『風姿花伝』神儀篇は、既成伝承の素朴な集合体ではなく世阿弥以外の知識人による創作を含んでおり、資料としてのあつかいに注意を要するとともに、他の拙稿に推測した応永二十年代半ばの『花伝』『風姿花伝』他篇の世阿弥自身による書き替えと一体の背景事情や執筆意図によって書き上げられた一篇だと考える。}, pages = {51--79}, title = {<研究論文>『風姿花伝』神儀篇の成立経緯と著述の意図 : 「申楽」命名説を軸として}, volume = {58}, year = {2018} }