@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00007058, author = {古俣, 達郎}, journal = {日本研究, NIHON KENKYŪ}, month = {Nov}, note = {本稿では、明治末のアメリカ人留学生で日本学者であったチャールズ・ジョナサン・アーネル(Charles Jonathan Arnell 1880-1924)の生涯が描かれる。今日、アーネルの名を知るものは皆無に等しいが、彼は一九〇六(明治三十九)年に日本の私立大学(法政大学)に入学した初めての欧米出身者(スウェーデン系アメリカ人)である。その後、外交官として米国大使館で勤務する傍ら、一九一三年に東京帝国大学文科大学国文学科に転じ、芳賀矢一や藤村作のもとで国文学を修めている(専門は能楽・狂言などの日本演劇)。卒業後は大学院に通いながら、東京商科大学(現:一橋大学)の講師に就任し、博士号の取得を目指していたが、「排日移民法」の成立によって精神を病み、一九二四年十一月、アメリカの病院で急逝した。, アーネルは日本の大学を正規の課程で修めた先駆的な日本学者でもあったが、早世したこともあり、その存在はほとんど知られていない。それゆえ、本稿では、アーネルの伝記的事実を明らかにすることに主眼が置かれており、とりわけ、彼の生涯の出発点である、スウェーデンからの移住先タコマの地での日本人移民との出会いに注目している。なぜなら、アーネルの死のきっかけとなった「排日移民法」の成立は、移民同士の出会いによって始まった彼の生そのものを否定するものであったからである。, アーネルの死後、恩師であり、親しい友人でもあった藤村は、英語教育廃止論を展開し、大きな反響を呼ぶ。そこにはアーネルの死を契機として、藤村が抱くに至った国家及び民族間の関係性への諦念と絶望が見られるのである。}, pages = {107--137}, title = {<研究論文>明治末の米国人留学生チャールズ・ジョナサン・アーネル : 忘れられた日本学者の生涯}, volume = {58}, year = {2018} }