@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000725, author = {原, 秀成}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Mar}, note = {本稿では一九二〇年代からのデモクラシーを求める活動から、第二次世界大戦後へのいくつかの系譜をたどった。  第一に、吉野作造から尾佐竹猛を介して、鈴木安蔵に至る憲法制定史研究の系譜を明らかにした。明治文化研究会では、広い視点から憲法制定史がとらえられ、資料収集が重視された。この方法と課題は、鈴木安蔵の研究へと受けつがれた。吉野の示唆により鈴木は、ドイツの君主主義的な憲法理論が、一八八九年大日本帝国憲法制定において継受されたことを具体的に解きあかした。戦時中の鈴木安蔵の憲法制定史研究は、民定憲法案作成の準備期間であったとさえいえる。この明治文化研究会や、憲法史研究会から、戦後の憲法研究会へのつながりがあった。  第二に、一九二〇年森戸事件を契機とする人の輪や、戦後の総合雑誌『新生』を舞台とした文化人たちとのつながりが、憲法研究会に生かされた。こうした場で出された意見が、鈴木安蔵によって法の言葉に「翻訳」されたといえる。このような第二次世界大戦後の憲法研究会に結集していった人脈の形成は、戦前からの総合雑誌での活動の蓄積なしにはできないものであった。こうした意味において、一九二〇年代からの活動は日本国憲法に生かされたといえる。  第三に、他方でこうした憲法研究会案が、現行の日本国憲法に十分に生かされたとはいえないことをも指摘できる。実現されなかった自由やデモクラシーの規定を、回復することも課題として浮上する。さらに一九四六年日本国憲法は、一九四八年世界人権宣言より制定が早かったため、人権規定が不十分だともいえる。日本国憲法の内容に限界があることにつき、言及を回避ばかりしてもいられないと考えられる。それだからこそ、これまで日本に蓄積されてきた「デモクラシー」の思想と活動の系譜をほりおこしておくことは、非常に重要だと考えられるのである。}, pages = {213--252}, title = {<共同研究報告>大正デモクラシーと明治文化研究会 : 日本国憲法をうんだ言論の力}, volume = {21}, year = {2000} }