@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000731, author = {銭, 国紅}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Feb}, note = {日本はアジアで一番早く近代化をやり遂げた国であり、それに対して、同じアジアの国である中国の近代化の道は極めて苦難に満ちたものであった。これは何を意味しているのであろうか。これについて、今まで、両国の学界ではいろいろな議論があったものの、まだ完全に満足できる解釈がない。多くの研究者は、日中両国の近代化の本質を西洋の衝撃と日本の応戦として片づけてきた。しかし最近になって人々はそのような研究には一つの大きな落とし穴があると気づき始めた。つまりそれは両国の近代化を西洋に対する受け身的な対応としてしか考えず、常に歴史の新しい方向性を模索しつつある知識人の主体的営みを無視してしまった点である。私もこれはもともと中日の近代化歴史の実際に合っていないのではないかと前から素朴な疑問を感じてきた。  この問いを解くために、私は中国人と日本人がどのように積極的に世界像を身につけてきたかという近代化の原点に立ち戻って再考察する必要があると思う。西洋を含めた世界像がどのようにして両国の人々の心に根づいてきたかを跡付けることによって、より直接に、しかもより深く中国人と日本人の近代化の前とその最中の思想状態を見ることができる。  本研究はこのような日本における世界像の形成を、中国などアジアとの連動において捉え、近代以前の日本における「世界意識」の芽生えとその成長ぶりを、蘭学者を中心とする知識人の思想や行動を通じて分析する。特に十九世紀後半の幕末では、日本知識人がいかに同時代の中国知識人の世界的視野や中国経由の海外の情報から刺激を受けながら、積極的に自国なりのさらに新しい世界像を構築していったか、中国知識人と比較して、両者の間にどんな精神的な連帯と断絶が見られるかを明らかにする。日本における新たな世界像の形成に対して、西洋の刺激のみならず、多元的なアジアの知的刺激も重要な役割を果たした事実を明らかにし、近代世界を迎える日本の真の姿を見つめながら、徳川日本と中国、また世界との関係を究明することを目指す。}, pages = {173--259}, title = {徳川時代の知識人と「世界」}, volume = {20}, year = {2000} }