@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000744, author = {磯田, 道史}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Jun}, note = {日本の武士社会では、養子が家を継ぐことが、しばしばある。しかも、日本の養子制度は中国や朝鮮の制度と異なり、必ずしも、同じ家の成員でなくてもよい。しかも、養子が、当主(家父長)になって、その家を継承・相続する点が特徴的である。この東アジア社会では特異な制度は、日本近世の身分制社会にとって、どのような意味を持ったのであろうか?一八世紀末から一九世紀末の武士の養子制度について、長門国清末藩(山口県下関市)の侍の由緒書(家の歴史記録)と分限帳(名簿)をもとに、分析した。その結果、次のことが、明らかになった。  (1) 養子相続の割合は三九・〇%にのぼる。そのうち、家名が異なる者が養子になった割合は、三四・二%であった。  (2) 同じ身分や階層のなかで、閉鎖的に、養子が交換されている。養子の出身をしらべると、八五%は同じ清末藩士の子であった。武士の子が約九九%で、残りの約一%は僧侶や医者の子であった。同じ武士でも、藩で決めた家のランクが同じ、もしくは、一ランクだけ違う武士の間で、主に養子が交換されている。禄高が二倍以上離れた家が養子をやりとりする例は少ない。  (3) そのため、養子制度をつかって、個人が大きな社会移動をするのは難しかった。日本の武士社会では、父の禄高が子の禄高に与える影響は絶大であった。父の地位の影響力をパス係数でみると、実子の場合、〇・九におよぶ。他の家に養子に出た場合でさえ〇・五であった。  もし、養子の制度がなければ、日本の武士の家は、一〇〇年で七〇%以上が途絶えたはずである。しかし、養子制度があるため、武士の家は途絶えず、新たな家が支配層に参入する機会を少なくしていた。日本の養子制度は、同じ階層内で武士を再生産する制度であったため、重要な例外を除いて、直ちに身分制度をゆるめるものではなかった。むしろ、既に支配層にある特定の家々の人々が、永続的にその地位を占めつづけるのに、役立っていたと指摘できる。}, pages = {221--239}, title = {<共同研究報告>藩士社会の養子と階層移動 : 長門国清末藩の分析}, volume = {19}, year = {1999} }