@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00007481, author = {四方, 朱子}, journal = {日本研究, NIHON KENKYŪ}, month = {Mar}, note = {大江健三郎の初期短編の中に、「他人の足」(初出:『新潮』第54 巻第8 号、1957 年8 月)という脊椎カリエスの少年たちの物語があるが、このテクストは大江の文壇デビューの最初期に書かれているにもかかわらず、その後の大江小説の特徴を多く備えている。この短編を、その語り手が脊椎カリエス患者の当事者の一人称視点であることに注目し、分析することで、この短編が持つ複層的なゆらぎがもたらすリアリティを明らかにしたいと考える。, 「他人の足」は、従来、大江自身が著した「後記」の中の、「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考える」という記述を受けるかたちで、江藤淳や紅野敏郎らのような大物評論家らが、率先してその記述を追認し評するという傾向にあった。しかしこのような読みは、このテクストがわざわざ「障害者」を語りの中心に置いている事には触れずに済ませてしまっている。, このことを問題視した先行研究をひもときつつ、改めて「他人の足」を読むと、その時代には脊椎カリエスの化学療法が始まりだした過渡期であり、大江がそのダイナミズムを物語にうまく取り入れることで、 集団とそこから離脱してゆく「 個」 を描き出していることがわかる。, 一方で、この短編は、障害者の「性」を一貫して「卑猥(ひわい)」なものとして描き出していることで、現在、身体障害者への性的介助サービスを行う「一般社団法人ホワイトハンズ」などが問題視する障害者の性の権利を差別的に卑下してしまっているという問題もある。ところが同時に、「他人の足」というテクストは、その語りを、先述のように脊椎カリエス患者の当事者の一人称視点に設定することによって、このような差別的視点を内面化しているというリアリティとしても評価できるという、絶妙なバランスを持つものでもある。このような不安定ともいえる表象は、大江文学を分析する上で不可欠であろう。}, pages = {141--157}, title = {<研究論文>「他人の足」 : 当事者であるということ}, volume = {60}, year = {2020} }