@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00007590, author = {久葉, 智代}, journal = {日本研究, NIHON KENKYŪ}, month = {Nov}, note = {本稿は、『万葉集』における「みやこ」と「ひな」という語について、従来その語の持つ概念的な面からの分析が多かったものを、歴史的な背景や歌の場という観点から具体的な姿を復原しようと試みるものである。  「みやこ」「ひな」とは国司赴任、流刑、外国への派遣などさまざまな状況において現れるが、そのほとんどに共通するのは中央の官人が地方へ赴く状況であることである。したがって、「みやこ」「ひな」とは主に中央官人たちの中に醸成された意識と見ることができるだろう。 飛鳥にみやこが置かれていた時代は、天皇がやってきた行幸先や行宮を「みやこ」と呼んでおり、必ずしも特定の場所を指すものではない。藤原京の時代の「やまと」を経て、平城京の時代になると、「みやこ」の語が現れるようになる。それまでと異なり、平城京をピンポイントで中央として捉えており、長期間固定して存在したことで「みやこ」が実体を持った生活空間として確立したことがわかる。  「みやこ」と畿内の関係については、畿内の地においても「みやこ」を思う態度や生駒山・竜田山・奈良山・真土山といった大和国を越えていく地点を詠む場合が多いことに注目すると、官人たちが重視する境界は関や畿内ではなく、平城京周辺と他の国を隔てる山であったといえる。  そして、「みやこ」に対するように「ひな」が現れる。「ひな」という語は主に地方に下った官人たちの歌の中に現れるものであり、頻出するようになるのは平城京の時代以後である。「ひな」において官人たちは望郷の思いで「みやこ」を詠み、「みやこ」と同様の場を再現した。しかし、同じ「ひな」といえどもその内実は歌人たちによって異なるものであった。「ひな」のほか、「ゐなか」「ふるさと」の語も見られるが、それらは「みやこ」にもなり得る場所であり、「ひな」とは本質的に異なる場所として扱われている。}, pages = {137--169}, title = {<研究ノート>『万葉集』にみる「みやこ」と「ひな」への意識}, volume = {61}, year = {2020} }