@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000763, author = {ヒロタ, デニス}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Feb}, note = {文化的宗教的多元性を認めざるを得ない世界となっている。こうした多元性が受け入れられる現代的人間像と世界観を考察するために日本思想を探るならば、日本で展開された浄土教に一つの手掛かりが見いだされるのではないか。というのも日本浄土教、特に親鸞の思想は言葉と真実の関係をめぐる問題、または宗教における教えとの関わり方あるいは理解の仕方に直接取りくもうとするからである。  親鸞思想では、言葉が言葉を超越した実在に至るための媒体として重要な役割を果たしている。というのは、阿弥陀仏の本願または名号を聞くということが信心を獲得する、すなわち仏陀の心(仏智、真実心)を得ることであるというからである。しかし親鸞の説く、教えとの真正な関わりに立つようになるのは、単に教義の言葉を知性的に受け入れ信じることではなくて、むしろ言葉自体や概念そのものに関する意識に転換が起こるということを意味している。いうならば、浄土仏教の教えを通常の世界観の枠内に取り入れるという関わり方から、親鸞のいう意味での真の言葉(まこと)と虚偽的言葉(そらごと)が自覚されることへの変化である。  こうした新しい関わり方が開かれると、自己や世界を把握していた概念は我執に歪められた、無実な構築となる。これを親鸞は、「煩悩具足の凡夫、火宅無情の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」と表現している。しかしまたそこでは「念仏のみぞまことにて」あると言えるようにもなるのである。  したがって、浄土仏教の教えには二つの働きがある。一つは人間の通常の思考、発話の虚偽性を明らかにすることによって、迷っている人間の「智・愚の毒を滅する」こと、つまり薬のような「治療」するという作用であり、二つは、それと同時に、真の言葉として、概念を超越した実在を出現させる力をもって人間の思考と発話のなかに入り、それらを転換させる働きである。  本稿は、親鸞思想における真の言葉の働きを明らかにし、特に親鸞の言語観を反映している彼の経典解釈法を考察する。}, pages = {47--86}, title = {親鸞思想と解釈}, volume = {17}, year = {1998} }