@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000765, author = {コタンスキ, W.}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Feb}, note = {古代の作品『古事記』(七一二年)に収載されている歌謡は音仮名で書いてある。音仮名とは漢字本来の意味とは無関係に漢字の音を日本語(やまとことば)の音節に当てたものである。  高山倫明氏の論文によると、八世紀頃の日本の漢字使用法には、その頃の漢語の形態音韻法に基づいた原音声調が備わっていた。  高山氏は、主として『日本書紀』(七二〇年)の歌謡を研究したが、その結果、漢字で表記された古代日本語の口語の伝承の音韻転写は古代日本語の語法を精確で確実に反映している、と主張する。  問題解決のための同じ鍵を掴んだ私も、先般来『古事記』の歌謡の中に利用された抑揚声調の方式を調査してみたが、結論は同様だった。すなわち『古事記』の歌謡の原音声調の伴われた音仮名表記も、日本語の語句を形態音韻上で識別され、信頼できる十分に確かな表示なのであった。  けれども、上代日本では、たぶん弟子など秘伝を伝えられる人々のためではなくむしろ門外漢のために、歌謡の内容を伝える教示のようなものが、おそらくは密かに伝達されていた。それだから、どの記紀歌謡にも表意文字で書かれた、音仮名のバリアントに相当する漢字仮名交じり文が以前から伝えられていたことは周知の事実であったのだ。従って、上述の歌謡の原文の音仮名表記をそれらの解説に当たる今日の筆者にとっても漢字仮名交じり文と比較する好機が捉えられることになったのである。  その時に臨んで、原文の音仮名表記の個別の文節に備わった抑揚声調が、ところどころに適切な漢字仮名交じり文の同分節の成長とは一致しないことが分かってきた。  けれども、この論文での枢要な問題は、分節の成長そのものを言語学的方法をもって調和的に働かせることを目指して、その進路を切り開くことではない。ここに話題としている点は、分節に現れる不調和などは一般的に語句の意味の種々の差異を表明するので、原文の音仮名表記が取り消すことができないで変更すべからざるものであるのが自明の理である以上、後の仲介者の誤解も含む意味の変節というのは残らず漢字仮名交じり文に起因するに相違ない、という点である。ところが、漢字仮名交じり文は、一般的な日本人にとっては模範的な解釈文を提供するのではないかと考えられることに関連して、旧注解者の誤解を指摘していくと、当該の歌謡の趣旨は、従来の解釈からは見分けがつかないほど変わって行く可能性もありうるのである。  それにもかかわらず、音仮名表記と漢字仮名交じり文とを比較する研究の価値は、古代歌謡の改正された注釈を行って発表するということではないと思う。同研究の展望は、筆者の考えでは、古代歌謡の正確な判読や解読のための説得力ある方法論を発見することを趣旨とすべきなのである。  私としては、そのような方法論の端緒を『古事記』の序文の中に認めるものである。同序文の著者太安萬侶は、おそらく音仮名を当時の口語を漢字で転写するためにふさわしい唯一の書写法として採用しようと思うばかりになっていたが、漢字一字を日本語の一音節に当てる場合は、文章があまりに長くなりそうなことが判明した。それで安萬侶は、同一の本文に(歌謡の記載だけは例外として)表音文字と表意文字をともども利用して、神話などを転写しようと決意した。  とは言うものの、表意文字とは言ってもそれは文の前後関係の外側の面から見た結果であるが、実は安萬侶の考えでは、それを訓仮名として扱うべきだ、という証跡が目に見える。すなわち、日本語を漢字だけで書き表わす時、その字の意味とは無関係にその字の訓を日本語の音節にあてはめて用いた漢字のことである。だから、読み手は、漢字を注視することからは直接に意味を取ることはできないのだ。訓仮名式の文脈から中身を把握する過程は、純音仮名の読み方と同様なのである。  安萬侶の立場に従えば、音仮名及び訓仮名は両方とも本文の表層ばかりをなして、同本文の深層に達するためには、分の統語論上の構成要素(語句・言葉・形態素)を分節して区分する文法上の規則的な操作を行うべきなのだ。上述の次第によって、安萬侶のおかげで、『古事記』という日本語の傑作を、中国語における概念の内包や外延なしに理解することができるのである。}, pages = {137--185}, title = {古代歌謡の解読}, volume = {17}, year = {1998} }