@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000775, author = {千田, 稔}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Sep}, note = {本論は、日本古代王権の一つの中心地であった磐余(奈良県桜井市西南部)をとりあげ、文芸評論家保田與重郎(一九一〇―一九八一)の思想的立脚点となった鳥見の霊畤の風景を、歴史地理学の視点から検討をする。鳥見の霊畤は『日本書紀』の神武天皇の伝承において語られる「祭の庭」であるが、神武伝承が虚構性が高いために、鳥見の霊畤についても、戦後の古代研究の対象とならなかった。  一方、戦前の日本浪漫派の旗手であった保田の郷里が磐余であり、かつ保田にとっては磐余こそ日本の原郷であった。保田には風景に関するエッセイがいくつかあるが、彼は風景に精神的な根源を求めることを主張し、近代的な風景観を退ける。みずからの郷里と日本の精神の郷里とが一致するとみる保田にとって、磐余にある神武伝承の鳥見の霊畤こそ祭政一致の象徴であった。  だが、保田の思想を日本の根源へと遡らせるのは、鳥見の霊畤が神武伝承として語られるからにほかならない。もし、鳥見の霊畤が神武伝承としてではなく、古代王権のある時代に実在していたとしたら、保田の思想の中枢にある風景は揺れ動く。  筆者は、古代の天皇の宮の南に聖なる山を配したというモデルから、鳥見山は、欽明天皇の磯城嶋金刺宮のほぼ真南の山であると推定した。この推定が正しければ、鳥見の霊畤は六世紀中頃に実在したことになり、保田が日本の魂の根源としてこの風景をみなければならない理由はなくなる。保田から鳥見山の風景を解き放つことが本稿の目的である。}, pages = {13--31}, title = {古代王権論と文芸者の射程 : 磐余について}, volume = {16}, year = {1997} }