@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00007840, author = {滝川, 祐子}, journal = {日本研究, NIHON KENKYŪ}, month = {Mar}, note = {大黒屋光太夫は所持していた『節用集』系統の書籍をもとに、ロシアで日本図を製作したことが知られており、これまでに西欧で7点の光太夫自筆日本図が報告された。英国公文書館の外交文書から、駐露公使ウィットワースが光太夫日本図の正確な写しを作成し、サンクトペテルブルクからイギリスの外務大臣グレンヴィルへ送ったことが明らかになった。この複製された日本図に関する書誌情報を探し、グリニッジの国立海事博物館ケアード図書館から史料の画像を入手した結果、光太夫日本図の写しが同図書館に現存することを発見した。本稿では入手した画像と既報の光太夫自筆日本図との比較検討を試みた。その結果、新出の日本図は、文字情報は別に写し取られたが、光太夫日本図を正確に写し取った複製図であることが判明した。  文献から同時代の西欧人が記録した光太夫の日本図情報とその内容をまとめた。文献情報、例えばガスリが雑誌に寄稿した文章には、光太夫がペテルブルクで日本図を作成する様子が含まれていた。またこの頃に西欧へ流出した日本地図とその受容の時期を検討した。さらに西欧諸国による日本近海の探検と日本沿岸の海図作成の歴史をまとめた。その結果、光太夫日本図の写しがイギリスへ送られた1793年は、長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』が西欧で認知され始めるより少なくとも3~4年早く、同様に日本の海図を含むラペルーズの世界周航アトラスの出版年1797年よりも3~4年早いことが分かった。  一方、高い教養を持つ人物として評価され、かつ船頭である光太夫が描いた日本図は、関門海峡がないにも関わらず、当時の西欧知識人に最新の日本の海図情報と見なされたことが明らかになった。特にこの時期のイギリスは、政治、外交、経済の点で極東への進出を画策しており、ロシアと競争関係にあった。新出の日本図は、イギリスが光太夫の日本図を最新の海図情報と見なし、直ちに写しを作成してロシアから本国に送っていたことを示す史料であると考えられる。}, pages = {159--197}, title = {<研究ノート>新出の英国史料からみた十八世紀末の西欧における大黒屋光太夫日本図の評価}, volume = {64}, year = {2022} }