@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000834, journal = {日本研究}, month = {Sep}, note = {前漢の辞賦作家、思想家、言語学者である揚雄は、後の文学では、名利を離れた賢人として描かれる。しかし、『漢書』揚雄伝などの資料からは、揚雄の姿は一つに収束しない。  本論では、揚雄伝を検討し、揚雄伝の原型は、揚雄自身の手になるものであることを伝賛と顔師固の注からあきらかにする。つぎに、揚雄伝の作品構成を史実と勘案して、揚雄伝が歴史を忠実に反映するものではないことを述べる。そして、揚雄伝は、はじめ文学を志し、次に周正から春、生命の春と殺戮の冬を対比させ、四時のめぐりに沿って、作風の異なる辞賦を並べ、辞賦による諷諫が無効に終わった後、装飾過剰の文学を否定し、哲理に専心するという文脈に従って再編成されたものであることを示す。かつての同僚王莽が新を建ててまもなく起きた疑獄に連座し、投身自殺を図ったのちが編集の時期と考えられる。失意の揚雄に残され、不遇の一生を支える力となったのは、文辞だった。  一方、『漢書』中、揚雄伝の成立は早い。班氏と揚雄とは、王莽が支配する不遇の時代、親しく交わっていた。揚雄像には、班固の祖の姿も重ねられているだろう。文学内での揚雄のイメージを固定したのが、班固の伝賛である。}, pages = {59--97}, title = {<研究ノート>揚雄論}, volume = {11}, year = {1994} }