@article{oai:nichibun.repo.nii.ac.jp:00000890, author = {李, 栄九}, journal = {日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要}, month = {Mar}, note = {日本の古典詩歌では、伝統的に「心」と「詞」を最も基本的な要素としていた。  ところが芭蕉の教えとして記載されている蕉門の俳論には、まことの感動は「もの」との一体一如の境地で生じるという思考が非常に強く打ち出されている。即ち、芭蕉は芸道の心得の上では、戦陣の詩歌の道を歩みながらも、芸術的感動の起生する根源を詩人の主情や創造性においているというよりは、むしろ「もの」の側においていると解釈できるのである。  芭蕉によれば、句作は私意による構成的、技巧的なものではなく、「松の事は松に習い」、「物の見えたる光」によって、おのずと「成る」ものであった。  物は自得の本性をもつ。珍物新詞を求めやすい私意の彼方に、自己本来性と同時に自然の理法に従って存在する、即ち、自己固有の本来性と、天地自然の理法とのかかわりという両義性をもっている。  「もの」は飛花落葉として、常に変化の途上にある。そしてその変化は造化の原理に基づいている。転変の途上において「時として」、瞬間的に捉え、言葉で表わすのが俳諧芸術のまことである。故に「乾坤の変は風雅の種」である。  「もの」は対象化する機能をもつ主観=私意では捉えられない。「もの」の本相を観入する直感的方法によって、顕わになる。  以上、蕉門の俳論書に断片的にみられる芭蕉の「もの」についての思考を、芸術論的な太場から解明を試みたのである。}, pages = {39--54}, title = {芭蕉俳論における物}, volume = {8}, year = {1993} }